※こちらの記事は、2015年1月に執筆したものです。
過日山口県防府(ほうふ)市の毛利博物館へ見学にいった。
多くの毛利家文書が展示されている。
そこで展示されてある毛利輝元の手紙である。
輝元は毛利元就の孫。関ヶ原で西軍の総大将になりながら大阪城を出ることなくむざむざと敗軍の将にされ、中国地方約10カ国の領国112万石から周防・長門2ヶ国の37万石に大減封 。あわてて隠居し、息子の秀就(ひでなり)に家督を譲った。秀就は幼少から名目上の藩主になったが幕府への人質で江戸住まい。藩政は国にいる父親の輝元がみる。
その父親から、江戸詰め家老への手紙が展示。
当時若い藩主は江戸で遊び放題らしい。国元まで噂になりお家取りつぶしを心配した輝元は若い藩主をいさめてくれるように家老あて手紙を書く。長文も長文、はかってみたら私の歩幅で17歩もあった。それでも行状が収まらない。
今度は父親は直接息子に手紙を書く、私の歩幅でこれまた9歩もあった。
時あたかも関ヶ原で大功のあった49万石の大大名福島正則でさえあっさりと改易された頃である。藩主の行状悪しとして毛利家でさえ改易されかねない。痛々しいほどの親の気持ちがわかろうと言うものである。
いつの時代でも子を思う親の気持ちは同じだなあと思った。
その息子からの返事、1枚に承りましたと大書してあった。
もっとも、本人達も後世これが重要文化財になろうとは夢にもおもわなかったろう。
2015.01
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- 弁護士法人 田中彰寿法律事務所 代表。
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